2016年12月

『パパママバイバイ』オスプレイ墜落の39年前、子供たちの命を奪った「横浜米軍機墜落事故」

acaluliaさんのブログより転載

以下の事件をアニメにしたものが『パパママバイバイ』だ。私が人生で初めて平和を求める映画の上映運動にかかわった作品だった。一日も早く、日本は真の独立を勝ち取るべきだ。

オスプレイ墜落の39年前、子供たちの命を奪った「横浜米軍機墜落事故」

スノーデンが日本人ジャーナリストに語った「米軍のおごり」

Text by Midori Ogasawara http://courrier.jp/columns/72159/

2016.12.29
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1977年9月27日、横浜市緑区に米軍のファントム偵察機が墜落し、9人の死傷者を出した
PHOTO: JIJI PRESS
米国国防総省の元契約職員、エドワード・スノーデンに対する独占取材に日本人として初めて成功したジャーナリストの小笠原みどり氏には、忘れられない記憶がある。小学校1年生のときに、自宅近くに米軍ファントム偵察機が突っ込み、死傷者9人の大惨事となったのだ。

オスプレイ事故は起こるべくして起こったのではないか? スノーデンが著者に語っていた警句とは何か? 安倍政権は米軍の操り人形なのか? 安倍・オバマの真珠湾訪問の裏側で、我々にのしかかる日米安保の闇を撃つ。

日本の住民より米軍優先

2016年12月13日、米軍普天間飛行場所属の垂直離着陸機・オスプレイが沖縄県名護市沿岸で墜落した。

オスプレイが危険きわまりない無理な乗り物であることを繰り返し指摘してきた人たちは、「ついに起きたか」と暗然たる気持ちになったことだろう。軍用機は世界中で事故を起こしているが、なかでもオスプレイは墜落を繰り返し、「欠陥機」と呼ばれてきたからのだから。

多くの人にとって、墜落はけっして「意外」ではなかった。

(中略)

火の海となった横浜市緑区 

私は小学校1年のとき、学校からの帰り道で、坂の上から飛行機が地上へ墜落するのを見た。

宇宙から降って来た黒いハレー彗星のように、空を右から左へ斜めに引き裂いた煙幕は地面に突き刺さって、轟音とともに風景を震わせた。ごく当たり前の1日の、ごく当たり前の昼下がりの景色に、乱入した巨大な悪魔。私は、夢ともうつつともつかぬまま、無性に不安にかられ、家へと駆けた。背中のランドセルで、筆箱が鼓動のように激しく鳴った。

1977年9月27日に起きた横浜米軍機墜落事故。私が暮らしていた横浜市緑区に米軍のファントム偵察機が突っ込んだのだ。荏田町(現・青葉区荏田北)の宅地造成地周辺は火の海となり、死傷者9人の大惨事となった。

私が家に帰り着いて間もなく、テレビの画面が速報を伝えた。米軍も偵察機もなんだかわからなかった7歳の私は、空から突然に降ってくる鋼鉄と燃料油の恐ろしさにおびえるだけだった。

パイロット2人は墜落直前にパラシュートで脱出して無傷だった。すぐに海上自衛隊のヘリコプターが駆けつけ、2人を米空軍厚木基地(神奈川県)へと運び去ったが、それを知ったのはもっとずっと後のことだ。ヘリコプターは現場の被災者を救出しなかったし、米軍も自衛隊も、事故の発生を消防に通報することはなかった。

横浜米軍機墜落事故の悲劇は、緑区の小学生にとって「死傷者9人」という乾いた数値では片付けられない生々しい痛みとして伝わった。

墜落現場近くの自宅にいた林和枝さんは当時26歳。息子である3歳の裕一郎くんと1歳の康弘ちゃんも一緒だった。3人とも全身に火傷を負って病院に運ばれた。裕一郎くんは翌28日午前0時40分に「バイバイ」の言葉を残して亡くなった。康弘ちゃんも未明の4時半に、「ぽっぽっぽー」と『鳩』の歌を口ずさみながら息を引き取った。

全身の8割に火傷を負って生死をさまよう母の和枝さんに、しかし夫や両親は子供たちの死を告げることができなかった。和枝さんは、皮膚のない体表面からの化膿を防ぐために、硝酸銀の薬浴など激痛を伴う治療を受け、肉親らからの皮膚移植手術を繰り返していた。

彼女が真実を知れば、生きようとする意志を失ってしまうかもしれない、と考えたからだ。

墜落から1年4ヵ月後に治療が一段落を迎えたとき、和枝さんは真実を知る。家族が病室でユウ君、ヤスちゃんの死を告げたのだ。和枝さんは大きなショックを受けて泣き続け、慟哭のなかで「2人の子どもをもう一度抱きしめたかった……」とつぶやいた。

数日後、自宅で幼子の遺骨と対面した。その日の和枝さんの闘病日記はこう記している。

〈ほんとほんとうに亡くなってしまったという事と、姿は変わってしまったが、子どもに会えたうれしさが入り混じり、胸がいっぱいになった。

今まで会えたらやさしく抱いてやりたい気持ちだったので、そっと康弘のお骨を抱いてやり、続いて裕一郎のそっと抱き話しかけるようにすると心が伝わったような感じがした。

でも、これが生きてこうとすることができたならば、ほんとうにうれしいが、遺骨と対面する結果になったのは残念でしょうがない。悲しい。

でも、裕一郎と康弘に約束をした。二人の分までママが一生懸命がんばって生き抜いていくことを。〉
(横浜米軍機墜落事故平和資料センター『1977・9・27—2015・9・27 横浜米軍機墜落事件年表 人々が残したもの』より)

自身と子どもたちのいのちと、何重にも身を切られ、深い嘆きと悲しみを胸に、和枝さんは再び生きる決意をした。

政治によってつくられた31歳の母親の死

ここで悲劇が終われば、残された者にはまだわずかな救いがあったかもしれない。

和枝さんは墜落事故から44ヵ月後の1982126日、31歳で絶命する。70回におよぶ皮膚移植を受け、深い傷を負った体で、愛児たちの死を乗り越えようとすることは生易しいことではない。それも自然死ではない。人為的な死、日米安保という政治によってつくり出された死なのだ。
事故を起こした米兵2人は本国へ帰還し、横浜地検は2人を不起訴とした。日米地位協定により、米軍の代わりに賠償交渉の相手となった防衛施設庁(当時)は、事件当日から家族に無断で職員を被災者の入院先に詰めさせており、その後も和枝さんの治療方針の決定にかかわり続けた。

和枝さんは横浜防衛施設局に誠意がないと言って1日に10回も20回も電話をかけるなど、精神的に不安定な状態に陥っていった。肺炎で入院したのをきっかけに精神病院へ強制的に転院させられ、呼吸困難のため喉に入れていたカニューレを防衛施設局職員の立ち会いで抜かれた。

翌日、和枝さんは呼吸が苦しいと病院側に訴えるが相手にされず、防衛施設局職員が家族に「和枝さんはカニューレの抜去もすみ、大変元気です。ご安心ください」と電話している。

3日後、和枝さんは「心因性呼吸困難」で急逝した。

父の土志田勇さんは「予想も出来なかった和枝の死に、私は残念で、残念で、娘の命が断たれたという思いがしてなりませんでした。それは今も同じです」と記している(土志田勇『「あふれる愛」を継いで 米軍ジェット機が娘と孫を奪った』より)。

米軍機事故は、これほどまでに容赦仮借なく人の人生に襲いかかり、陰惨にまとわりついて、いのちを破壊した。ひとつの墜落事故が、無数の終わらない苦しみを生み出したのだ。

米軍ファントム機はまだこの世に誕生したばかりのいのちを続けざまに奪い、大人たちの身を焼き、切り刻んだ。飛び去った米兵と、苦しみに打ち捨てられ、殺された人々。

公平も、平等もあったものではない。正義は不問に付されたまま、米軍を守るべく、日本の「防衛」機関が暗躍する。不正義に抗おうとした和枝さんは鉄格子のはまった病室へ送られ、その声は奪われた。

私たちの日常は、実はいつもこの容赦仮借ない政治の闇、日米安保という戦争装置の下にある。

闇に葬られる過去

米軍機「事故」は、もちろんあってはならない重大事件だ。しかし、事故はこうして過去にも繰り返されてきた。横浜以外でも、日米安保という構造のなかで必然的に、生きようとするいのちを闇に飲み込んできた。
(以下略)

小笠原みどり
ジャーナリスト。朝日新聞記者を経て、2004年、米スタンフォード大でフルブライト・ジャーナリスト研修。現在、カナダ・クイーンズ大学大学院博士課程在籍。監視社会批判を続ける。新刊に『スノーデン、監視社会の恐怖を語る 独占インタビュー全記録』(毎日新聞出版)、共著に『共通番号制(マイナンバー)なんていらない!』(航思社)、共訳に『監視スタディーズ』(岩波書店)。


「我が事・丸ごと」地域共生社会実現政策についてのJD見解

「我が事・丸ごと」地域共生社会実現政策についてのJD見解
日本障害者協議会HP

JDは、「我が事・丸ごと」地域共生社会実現政策についての見解を第一次意見としてまとめました。 

参考:第1回「我が事・丸ごと」地域共生社会実現本部 資料 平成28年7月15日(金)

「我が事・丸ごと」についての第一次意見
特定非営利活動法人
日本障害者協議会(JD)

 今年、厚労省は、「『我が事・丸ごと』地域共生社会実現本部」を立ち上げた。そのねらいは、高齢者・子どもなどの福祉と医療を地域単位で一元化していく、いわば「地域包括ケア」をめざすものとされている。JDは、この政策について、地域福祉という視点や谷間を生み出す縦割りの廃止などの理念的な側面では評価できる点もあるが、全体的には公的責任の後退、地域での支援サービスの縮小と質の低下、地域格差の拡大が確実に予測されるものと考える。福祉も介護も、再び家族責任・家族依存の時代に戻ってしまう恐れがある。
 この政策は、介護保険制度の破たんと社会保障費・医療費の大幅不足を理由に、財政論に強く影響されて生まれてきたことを指摘しておきたい。

 障害者福祉は、コミュニケーション支援や、長時間の見守り、本人の意思に基づく自立生活の支援、社会的・文化的活動への参加の支援など、障害者のライフスタイル全体を支えていくことをめざして発展してきた。その費用負担も、多くの障害者が障害基礎年金あるいは生活保護、家族依存にしか所得の当てがないことから、無償または応能負担とされてきた。
 しかし、2000年の社会福祉基礎構造改革以降、民間活力が推奨され、考え方が大きく転換された。高齢者介護と同じように障害者サービスに1割負担を導入し、介護保険と同じような支給決定システムを導入したのが障害者自立支援法であった。障害者自立支援法の違憲訴訟団と国(厚生労働省)との基本合意において、国は、深い反省の意を表明し、廃止にまで至らしめた。そして「障がい者制度改革推進会議総合福祉部会」による「骨格提言」へと続いた。現在の障害者総合支援法は、「骨格提言」実現への道半ばであることを確認しておきたい。

 したがってJDは、危機的意識を持って「我が事・丸ごと」の政策の流れを注視し、今後も障害者権利条約の理念に照らした「基本合意」と「骨格提言」の完全実現をめざす立場から、個々の障害者政策について具体的提言をしていき、すべての人々がそれぞれの違いを認め合い、支えあい、安心して地域で暮らせる真の共生社会の実現に向けて、幅広く他の分野の人々とも連帯していく所存である。 
       以上

[閑話休題]「人は一人では生きられないということ」最首悟〜『さぽーと』2016年12月号「であい」より〜

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2016年12月号の『さぽーと』誌の「であい」に元東大助手・和光大学名誉教授の最首悟先生に小論・随想をご執筆いただいた。ちなみに「人は一人では生きられないこと」という題名は、本文にもあったが、先生の著書『星子が居る』の中にある節にあった言葉ともかけて* 私が付け、先生のご了解をもらった。

*一七、一八の若者にある種の文章を課すとまず百パーセント「人間は一人じゃ生きられない」と書く。そういう文章を見る仕事をもう一◯年以上しているので、根は深いのだと思う。(同書所収:星子が居る―「一人で生きる」という人間観)

「難解なお話や晦渋な表現は避けて、なるべく易しく書いてくださいねっ!」というお願いに「はい、わかりました」とご快諾いただき、1回だけ畏れ多くもダメ出しして書き直してもらったが、読み返すたびに、いい文章だなぁと初めて先生の著書『星子が居る』を読んだ時のような気持ちになった。お読みになられた読者諸氏はどのような感想を持たれただろうか。           ・

さぽーと編集者自身の記事紹介です。たしか秋川ハイムには、「最首塾」に参加していた職員もいるはず・・・。(林)

ノーコメント?

ノーコメント?

稲田防衛相が靖国神社に参拝した事について、安倍首相は「それについてはノ―コメント。」と言ってゴルフに興じています。現職閣僚の行動が外交問題に発展しているのに、政府の長がノーコメントはないでしょう!韓国、中国の抗議など意に介さないというメッセージを国際社会に発信しているに等しいではないですか?

これは稲田大臣の靖国参拝よりも質が悪い。真珠湾で米国には頭を垂れ、近隣諸国には横柄そのもの。こんな人物と政権を支持している人は、日本の品性を貶めていることにいい加減気がつくべきでしょう。(林)



【年末のご挨拶】被災地障害者センターくまもと

                被災地障害者センターくまもと

 地震から7か月がたっていますが、まだまだSOS依頼はあります。日頃の活動の報告や義援金のお礼等が出来ず大変心苦しく感じておりますが、来年も支援を続けていきますので、ご協力の方よろしくお願い申し上げます。
 
 ところで、来年の2月、センターは震災被害が最も激しかった益城町に引っ越します。まだ工事途中ですが、建物の外枠は完成していますので写真を添付します。
 
 来年は5日から仕事始めです。ボランティアもまだまだ募集していますので、どうぞよろしくお願いいたします。皆さま、よい年をお迎えください!(R)
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